歴史・沿革

縁起・沿革

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 正玄寺は、阿南駅から徒歩で十分ほどの場所に位置し、正玄寺という寺号は、本宗における県内唯一の古刹として知られる敬台寺(きょうだいじ)にかつてあった、末寺の名前に由来するといわれます。正保2年(西暦1645年)、徳島藩初代藩主である蜂須賀至鎮(はちすかよししげ)公の正室の敬台院(きょうだいいん)殿は江戸の法紹寺を阿波徳島に移して敬台寺を創建し、その末寺として本玄寺と正法寺の二カ寺が建立されましたが、その後、本玄寺は大正2年に岐阜県美濃市への移転を果たすものの、正法寺は廃寺となりました。
その歴史を踏まえ、新寺建立にあたって日達上人が二カ寺から一字づつ取り、正玄寺と命名されたとのことです。
創建当初は255坪の境内に、44畳の本堂と二間の庫裡という規模でした。初代住職は初めに墓地造成に着手され、昭和52年に寺院から20分ほどの市内長生町に三千坪の用地を取得し、三百基規模の墓地を開園しました。
また同56年には、本堂の御宝前側を二間広げて54畳に拡張し、御宝前も須弥壇および天蓋と幢幡で荘厳され、さらに池を配した庭園が造られました。それから間もない同年11月には、現御住職が第二代として就任し、以来、今日に至るまで次々 営々として寺門の発展・護持に尽力して来られました。
平成13年には、境内への出入り口を従来の場所から通り側へと変更し、従来の出入り口だった場所には塀が設置され外観を整えられ、昨年にも門柱を造立するなど寺城の拡充に努められながら、今日に至っています。
県南部にあって唯一の正宗寺院となる正宗寺院となる正玄寺には現在、市内および近隣の那賀郡や海部郡に在住の法華講員が所属し、御住職の指導のもと、折伏誓願並びに御命題の達成に向け、僧俗一体による堅実な布教活動が展開されています。